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「何んにも訊かんといて下さい。ちよつと間違ひが起きたんやで、――それは、後でお話しますわ――とにかく、手当を頼みます」
徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。
「なに、訴訟?」
「君に云つとくが、何んだぜ、小倉組の者なんかにかゝり合ひをつけちやいかんぜ」
「うん、寄りがあるからな、あんたはうちに帰つとんなさい」
「さあ、くはしいことは判りませんね」
あの鍵屋の法事の席には小谷も居含せた。彼はそこで殆どはじめてと云つてもいゝ位に高間房一を見、その思ひ切つた振舞を目にした。房一の去つた後では誰も何も云ひはしなかつた。彼等はたゞ黙つて見送つただけであつた。だが、房一の印象は強く皆の頭に灼やきつけられた。何かしら挑いどむやうな、強したゝかな足どり、――だが、それは表面筋が通つていて誹難することはできなかつた。
「御機嫌だつたね」
半之丞の豪奢を極きわめたのは精々せいぜい一月ひとつきか半月はんつきだったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴くつの出来上って来た時にはもうその代だいも払えなかったそうです。下しもの話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元値もとねに買っておくんなさい。これが誰にでも穿はける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、お前まえさんの靴は仁王様におうさまの草鞋わらじも同じなんだから」と頭を下さげて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。
房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでいるのを見つけた。
房一はふとその様子から、医者になつてはじめて帰国したとき、例の伯父が苦学の模様を根掘り葉掘り訊いて、満足げにうなづいたときの恰好を思ひ出した。そして、いつのまにかこの老医師に親しみを感じ出している自分に気づいた。それは彼が予期したこと、前もつていろんな風に描いていたものとはまるでちがふものだつた。この分では大して案ずることはない、房一はさう考へた。何かしら前の方がひらけ、何かが前の方で微笑して彼を迎へているやうに思はれた。
「徳さん、君は草履ばきぢやないか」
と、やがて相手は訊き返した。声音は落ちついて低かつたが、その裏には場合によつてはまるで反対の強さに瞬時に変りかねないことを感じさせる力がこもつていた。